鈴木 優 新人類世紀

新しい社会のあり姿について、不動産の話も交え毎日投稿します。特に提唱します「土地親和論」に共鳴していただけたら、とても嬉しいです。

逆張りのすすめ(その1)

いきなりですが、私達は今どんな時代に生きているのでしょうか?

天下泰平の時代でしょうか?

 

コロナやその後の異例ともいえる世界一斉のワクチン接種の展開を見て、今はそうではない非常時だということは皆様異論はないと思います。

それでは近未来はどんな展開があるのでしょうか?

 

例えばワクチンパスポート導入に賛成の人の中には、真顔で「経済を回すため」という人がいます。

周囲の人の言動やネット等の中の意見を見るにつけ、こういう人の中にはワクチン接種の更なる進展とワクチンパスポートの導入により近い将来コロナの蔓延がおさまり、その後はコロナ前の社会生活に戻ると本気で思っている人も少なくないようです。

 

それではコロナ前の社会に戻ることは可能なのでしょうか。

私はそんなことはないと考えています。

 

その理由は、現在コロナによる世界的混乱だけでなく、リーマンショック後更に拍車がかかった拝金主義を背景とした放漫金融の限界(今まさに中国の不動産バルブ崩壊かで揺れていますが)、格差の拡大、ポリコレへの評価に代表される人種文化面での混乱分断顕在化、恐らくまだ本当の原因がわからない気候変動の問題、そして極めつけは(意外に思われるかもしれませんが)西洋キリスト教社会の衰退と東洋文明の台頭の顕在化、等々従来の手法が通用しない歴史的転換期であることを予兆させる複数の問題が同時に発生しているからです。

これらの問題はコロナが蔓延したから発生してしまったものではありません。

むしろコロナの発生と軌を一にするカタチでこれらの問題もほぼ同時期に煮詰まって来た、というように私には見えます。

 

私は好きで良く歴史関係の書物を読みますが、時代が変わる時というのはこういうことがよくあるものです。

幕末におけるペリーの黒船のような、何かをきっかけとして変わるべきものが変わっていくという。

私は、その何かが今回はコロナであったのであって、コロナの出現により世の中が変わっていくわけでは必ずしもないと考えています。

要するに今回のコロナが発生していなくても、別の変化のきっかけとなる「何か」は出てきたと思います。

今はそういう時なのです。

そして今回はたまたまこのタイミングで新型コロナが出てきたというわけです。

そして上に書いたような潜在的にくすぶっていた問題が一斉に煮詰まってしまい、時代は大きく変わっていくのです。

 

歴史を見てみるとこのような変動は70~80年あれば必ずどこかの主要な大国で見られる現象であるようです。

ましてや今は世界が繋がっています、70~80年に一回ぐらいは源平合戦期や明治維新のような歴史的転換を伴う混乱が日本でも発生するだろうと予想することは、それほど暴論でもないように思います。

第二次世界大戦が終わって75年、ここ日本でも従来の体制の在り方を大きく揺るがす新たなご維新が起こっても不思議ではないタイミングに入っているというわけです。

 

したがって、私の結論はコロナ後に以前の日本に戻ることは「ない」ということです。

 

では、こんな時私達個人レベルではどんなことに気を付ければ良いのでしょうか。

 

その答えはこれまでの定番、常識、定石そして世間の目に引きずられないようにするということです。

上のようなものは大転換後の社会においては極めて価値や優先順位が低くなってしまう可能性が高いものです。

要はあまり役に立たないものになるということです。

 

ですから定番や定石、世間常識といったものでない方法を模索する必要があります。

つまり逆張りを恐れない、ということです。

 

続く

土地親和論 ‐ 土地親和論を個人生活にどのように生かせるか考えてみた(私の予感編)  

このブログでは前2回のブログのエピローグのような位置づけで、今私が予感していることを書きます。

 

私は現在進行中のコロナとワクチンの問題をこれまで見てきて感じていることがあります。

それはこのコロナとワクチンの問題の今後の顛末は、目に見える世界と目に見えない世界の併存という本当の現実を、白日の下にさらす一つのきっかけになるのではないかということです。

その時これまでこの目に見える世界で虚像に執着し振り回されていた人たちは茫然自失となることでしょう。

そして、既に二つの世界に触れている「響く」人たちは、茫然自失となっている一つの世界にしか触れてこなかった人たちに、その世界と並列して存在する目に見えない世界と二つの世界の間にありバランスを取る柱に触れることを紹介し、この方向性を見失い漂流している人たちに新しい生きる息吹を吹き込む存在になっていくと私は感じています。

そしてその時はそれほど遠くではないと。

 

このことは新たな多くの人々が、前回のブログで書いた古来天とも神ともサムシンググレイトとも呼ばれる二つの世界の間でバランスを取る柱に触れるきっかけを造ることになるでしょう。

 

そうです、このコロナの出現により多くの人々が近代化の中で忘れてしまったバランスを取る柱に触れそれを再認識していくことになるという予感です。

 

私はアフターコロナ社会の課題は近未来に起こるであろう金融崩壊とも相成り、先の大戦終戦後と同様の(今回は経済的な)焼野原からの再建になると考えています。

その中で今回の再建で必要となるのは、皆が目に見えない世界で繋がっていることを意識した上ので「助け合い」です。

幸いというか天のプログラムの結果か、草の根の民が助け合い連携していくことに利用できるITやクローン、3Dプリンター、ブロックチェーン等のテクノロジーや手法は既に出てきています。

後はそれを現代のような騙し合い出し抜き合いでなく、お互いが自らの心の自立を保ちつつお互い同士でも心を向けあう中での助け合いを確かなものにしていくためには、利用する人々の魂の清めつまり心の洗濯が必要となります。

そしてこの「清め」へとその心を向けていく中で、人はバランスを取る柱に触れまたバランスを取る柱は人に不可思議な恩恵という恵みを与えてくれるという実感が始まっていく、私は今そんな予感がしています。

 

今はその生みの苦しみの時期ということになりますが、コロナの克服もアフターコロナ社会の再構築もそれが可能になるには、人がバランスを取る柱に触れそしてこのバランスを取る柱の微笑みと恵みを受けるに足る道を自然と進んでいくようになる、ということが「鍵」になる実感しています。

これは個人であろうと個人の集合体であるコミュニティであろうと会社や何らかの組織であろうと、同じことであります。

 

各々個人がこのバランスを取る柱に触れて繋がって行くことのできる入口は、宗教の教え・ヨガ・気功等々色々あります。

何を拠り所としてバランスを取る柱を探求するかは、皆様方が調べてお決めになられればよろしいかと思います。

またもうすでに意識的にせよ無意識にせよ何らかの行動を実践されている方も多くいると思います。

そんな中私が提唱している土地親和論の概念を実感し実践していくことも、これまでこのブログで書いてきた通りバランスを取る柱の探求への入口になります。

つまりこの土地親和論の概念の実感とその実践は、人の「清め」を通してその人とバランスを取る柱を繋ぐという「鍵」をあけることを一つの到達点としているということでもあるのです。

 

以上あくまで私の「予感・感じ」の話しでした。

ご参考までに。

 

 

(備考) 

 

土地親和論とは

 

「地と人は繋がっており一体です」

したがって、

「これからは、人はそれを自覚し、地に足を付け、地に感謝し、地を清め浄化し、また地から必要なものを豊かに恵んでもらい、地やその元である地球のありとあらゆる生命やモノ・コトと助け合いながら、また人々も助け合いながら生きていくという哲学を基盤として、新しい社会やコミュニティを皆で知恵や工夫や情報を出し合い創っていきましょう」

 

土地親和論 ‐ 土地親和論を個人生活にどのように生かせるか考えてみた(その2)

昨日のブログの続きになります。

 

私の心の閃きにより「地と人は繋がっており一体です」ということを実感したことにより、どのような変化が現れたかについての話しから始めます。

 

心の閃きにより「地と人は繋がっており一体です」ということを実感しますと、これまで見えてなかった「あらゆるものが無数の糸状のもので繋がっているような状態の」目に見えない世界が私の周りに充満しているという実態を感じるようになってきます。

そうすると、私が従来の「目に見える世界」と閃きにより得た「目に見えないが心の中では生き生きと実態のある世界」の二つの世界にまたがって生きているということを体感するようになってきました。

その結果何を実感したかを以下箇条書きします。

・ 「目に見える世界」では価値観が薄くても、「目に見えないが心の中では生き生きと実態のある世界」では価値があるものがあるということ。

・ 親切、誠実、生きがい等の目に見える世界での精神的価値は、目に見えないが心の中では生き生きと実態のある世界ではけた違いに大きな価値があるようだ。

・ 私の経験から「目に見える世界」と「目に見えないが心の中では生き生きと実態のある世界」は私の行いや心の状態を通してお互いに影響しあっているようだ。

・ その結果、「因果応報」は本当のようだ。ただしその実現には時間がかかるが。

・ 「目に見えないが心の中では生き生きと実態のある世界」を実感することにより、

「目に見える世界」の価値観における執着が薄くなった

・ ただし「目に見えないが心の中では生き生きと実態のある世界」も「目に見える世界」もどちらも大切であり、「目に見える世界」の価値観で執着を持つことは悪いことではない。

しかし、その執着に捉われることは視野が狭くなり良くない。局面によっては一旦その執着を捨てたり薄めたりすることも必要である。従って「目に見えないが心の中では生き生きと実態のある世界」を実感することによりその「執着を薄める」ということがしやすくなった。

・ それにより人生において選択肢が増え、また目に見えるこの社会の中での不安も減って来た。何故なら私には「目に見えないが心の中では生き生きと実態のある世界」も価値があることがわかってきたから。

・ 結果、視野が広くなった。また生きているという実感がむしろ強くなり、自分が何のために生きているかという真理の探究がしやすくなったように感じる。

ざっとこんな感じです。

結論から言いますと、この世で「捨てる」ことが出来るようになり、また「視野」が広がり、自らが生きているという実感が強くなったのです。

 

その結果箇条書きには書かなかった重要な感覚が生まれてきました。

一周回って、改めて私は全体と繋がっていて孤立していないという感覚です。

ただし以前とは違います。

その全体の中心に、一本バランスを取る柱があるのです。

9月7日のブログでも書きました「真なる万物の共生という」一本の柱です。

昔の人はこのことを「天」「神」と呼んでいたのかもしれません。

ともかく、この目に見える世界と目に見えない世界のバランスを取る柱は確かにあります。

 

因みに私がこの柱に対して、普段は私達には全く接点がなく関心もないかのように感じますが、実は常に私達と共にあり私たちのすべてを知っていて何かのきっかけで時として私達の運命に介在してくる、そんなイメージを持ちました。

ですので、例えば「因果応報」もここから出てきていると感じました。

つまりちょっとした人への優しさや気遣いの蓄積が、この目に見える世界に思わぬ大きな成果をもたらすということをありうるということです。

当然その反対のパターンも。

 

私達は目に見える世界と目に見えない世界のバランスの中で生きているということなのでしょう。

そして私の感じるところ、どうも両者の間の主導権は時として運命をも動かしてしまうバランスを取る柱の存在に近いところにいる目に見えない世界の方にあるようです。

ですから、いくら努力を重ねても人生が極まってしまった時、むしろ舵を放して自らの心の選択に腐心しながらこの「天」とも「神」ともあるいは「サムシンググレイト」とも言われることもあるこのバランスを取る柱に委ねるということも、時としては必要になる時があるということです。

人事を尽くして天命を待つ、とも言いましょうか。

そしてこうした心持になった時、バランスを取る柱あるいは「天」による恵みか、時として紆余曲折があるにせよ絶妙の展開を伴って何かしら良い方向へと物事が動き出すということも、古来より面々と語り継がれてきたようにありうるということでもあります。

「神様」のお恵みとも言いましょうか。

 

私達は皆バランスを取る柱、つまり昔人々が「天」と呼んでいた何かと糸で結ばれています。

ですから上で言いましたように時にこの「天」に委ねるということも必要になる時があるのです。

特に目に見える世界の情報だけでは何とも判断がつかないときに。

この目に見える世界では嘘の情報、虚像を実像として信じてしまう、などということも日常茶飯事でおきていますので。

ですから、繰り返しになりますが時として「天」に委ねるということも必要になるのです。

でも、いくら「天」と繋がっているということを自覚したとしても、やはり舵を放してしまうのは不安がありますよね。

私も不安です。

ですから、舵を離すなら尚更、この目に見える世界の中においても目に見えない世界の流儀を意識して、綺麗ごとではなく本心で正しい行いとか清い心を心掛けて前向きに生きていいきましょうということです。

これが、私は実感したバランスです。

(すみません、ここまで偉そうなことをツラツラと書いてきましたが、私自身まだまだ俗世の我欲や執着に悩まされてなかなか上手くいきません。しかしこのことこそが人生のだいご味なのかもしれませんが。)

 

ここまでくればもうお分かりかと思いますが、現代社会に生きる私達は往々にして目に見える世界の価値観つまり物質的価値観だけでは心の視野が限りなく狭くなり、結果この視野が狭いという無意識の自覚からくる心から拭い去ることの到底できない不安が常に生じてしまうということです。

そしてその果てに、このどうしようもなくどこからともなく忍び寄る不安を解消するために、更に物質的価値を追い求めるという不毛な循環に陥ってしまいます。

また物事が見えているつもりでも実は近視眼的で見えていないということが起こることにより、計算通りにいかないという判断の誤りも多く出てくるのです。

現代社会ではこのようなトラブルが頻発していると言ってよいでしょう。

物質的価値を追い求めていますからこの物質面だけで人の成功を判断しがちな現代社会では周囲から一見成功者のように見えていますが、その実その一見成功者の心の内実は常に不毛な飢餓感に見舞われておりまた存外その末路も哀れであるということも少なくないのです。

 

その時もし土地親和論によりもう一つの世界の存在に触れバランスの柱に幾ばくかでも近づくことが出来れば、目に見えるこの世で心地いい「程々」の所有ということで心が満足できるようになるでしょう。

なぜならこれ以外に目に見えない世界でも宝を所有し、結果として二か所から満足を得ることが出来るようになるからです。

目に見える世界と目に見えない世界のバランスを得ることにより、この目に見える世界で心が充足できる本当の物持ちになることが出来るのです。

決して贅沢ではないけれど背伸びしない等身大のモノやコトを使って本当に楽しい時を過す、などということが極々自然にできるようになるのです。

まさに、精神と物質のバランスが取れ充足感に満ちた状態に至るとでも言いましょうか。

 

私は、このことを人の「目覚め」であり「進化」だと思っています。

 

二つの世界に触れる入口の一つとして、私は引き続き「土地親和論」を提唱していきます。

 

 

(備考) 

 

土地親和論とは

 

「地と人は繋がっており一体です」

したがって、

「これからは、人はそれを自覚し、地に足を付け、地に感謝し、地を清め浄化し、また地から必要なものを豊かに恵んでもらい、地やその元である地球のありとあらゆる生命やモノ・コトと助け合いながら、また人々も助け合いながら生きていくという哲学を基盤として、新しい社会やコミュニティを皆で知恵や工夫や情報を出し合い創っていきましょう」

土地親和論 ‐ 土地親和論を個人生活にどのように生かせるか考えてみた(その1)

本日のブログは私が97日に投稿いたしましたブログ土地親和論 ‐「私は土地親和論を授かった」の続編の位置づけになります。

 

ブログのテーマは、土地親和論を皆様個人のこれからの人生の中でどのように生かせることができるのだろうかということについて私なりに考えてみたことです。

 

まず初めに、土地親和論を以下提示します。

 

土地親和論とは

 

「地と人は繋がっており一体です」

したがって、

「これからは、人はそれを自覚し、地に足を付け、地に感謝し、地を清め浄化し、また地から必要なものを豊かに恵んでもらい、地やその元である地球のありとあらゆる生命やモノ・コトと助け合いながら、また人々も助け合いながら生きていくという哲学を基盤として、新しい社会やコミュニティを皆で知恵や工夫や情報を出し合い創っていきましょう」

です。

 

このブログでは前段の「地と人は繋がっており一体です」の部分を取り出して、色々と考察してみることにします。

 

まず初めに奇妙なことを書きますが、そもそも今現在「地と人は繋がっており一体です」というイメージを既に直感しあるいは予感している人でしか、私の土地親和論に興味はわかないのではないかと思います。

9月7日のブログで土地親和論を「響く人には響く」人に提唱していきたいと書いたのは、この前提があったからです。

ですから、このブログは「地と人は繋がっており一体です」という概念や実感に対して抵抗感の無い方やご興味が沸く方を主に読者と想定して書いていくこととします。

 

「地と人は繋がっており一体です」というイメージはどこから感じるのでしょうか。

それは私たち自身の不思議な超自然的感覚と言いましょうか、直観と言いましょうか、ひらめきと言いましょうか、そのような類のところからでありましょう。

要は私達が私達自身の心で感じる、いや受信するということです。

 

そしてこの受信は私達(俗に霊能者と言われる人たちは除きます。)が無心の時、私心のない時、無意識の時、極限の時、等非日常の時空で一瞬の閃きのようなかたちで起こるということは、皆様方も自らの経験から容易にお判りになろうかと思います。

つまり俗世の執着から離れ、自らの心が開かれている時です。

そのような時に「地と人は繋がっており一体です」ということを感じることが出来るのです。

また私の体験から言うと閃きは一瞬ですが、そこから得られる実感は私達も含めたこの世界のあらゆるものが無数の糸で張り巡らされているというイメージを心に実態のあるものとして強烈に記憶させるものであります。

 

このことは、翻って私自身が「地と人は繋がっており一体です」というイメージに対して開かれた態度を取る、つまり「地と人は繋がっており一体です」というイメージに無私の状態

で心を向けている時に、このイメージを受信し自らの心の記憶の中に体得しやすくなるということでもあります。

ですから、私は過去のブログで「地と人は繋がっており一体です」ということに対して、日常散歩中とか買い物に行く途中でもよいので、ちょっとした折々で「地」やその周辺の木々や花々などの自然に心を向けてみたらと書いてきましたのは、こうした背景があったからです。

そうした日常のちょっとした心の視線の先に、後々長々と心に響き続けるスタートとなる無数の糸で張り巡らされているという一瞬の閃き、一瞬のイメージ、が心に浮かぶかもしれないのです。

 

そして私の経験から言えば「地と人は繋がっており一体です」という実感を持つうようになると、縦横の自然(この中には横の人間も入ります)に繋がり従来の物質偏重の心持ちでは見えなかったような情報を(心の目を通して)見て聞いて感じることが出来ているという実感を持つことが時として起こるようになり、その結果得られる情報量が自分でも視野が広くなったかなという感覚を伴いながら増えていきます。

ここのところは大切なことですのでもう少し私の感じたことを書いていきます。

私は以前のブログで書きましたように「地と人は繋がっており一体です」ということが閃いたのですが、その後その実感が深まるにつれて物事の見方に以下の変化が生じてきたことを感じました。

 

それまではこんな私でも多少の直感はありましたが、ご多分に漏れず私の思考や情報は従来の目に見える社会に立脚した物質的価値観、具体的に言えばお金、土地などの財産、仕事、社会的体裁、他人からの評価、等々へ重きを置いていました。

もちろん人への親切、誠実、生きがい等もそれなりに大切なことではあると理解をして実感もしてはいましたが、それらの精神的価値も今にして思えば上に書いた物質的価値と絡み合った中でのものでした。

目に見える世界に大きな割合で心と態度が引っ張られがちであったということです。

 

しかし私の心の閃きにより「地と人は繋がっており一体です」ということを実感したことにより、こうした態度に変化が現れました。

 

続く

先週の金曜日、久しぶりに散歩しました。

先週の金曜日、9月に入ってから雨の日が続きていた中、久しぶりに良い天気になりましたので散歩をしました。

 

1時間ぐらい散歩をしました。

ところがその日は、肌寒い雨がちの天気が続いた後久しぶりに良い天気になったかと思いきや、一転日中30度越えの真夏日です。

暑かったです。

汗をたっぷりかいてしまいました。

 

ですが、やはり9月ですね。

真夏に比べて心なしか空気が乾いていまして、暑い中でも秋の気配を感じさせました。

そう、季節は確実に変わっているのですね。

いくら気温が高くても、もう真夏ではありません。

 

同時に、どうやら社会の空気も天気同様ここにきて季節が変わり始めた気配となり、何かこれまで水面下で動いていたものがこの地表に出てきそうな予兆を感じているのは、私だけでしょうか。

 

これからちょっと目が離せなくなることが次々に起こってくるかもしれませんよ。

 

 

土地親和論 ‐ 割り切れないものを割り切ってはいけない進化論(その2)

前回のブログで数値の絶対化について書きました。

 

でも何か変ですよね。

だって、世の中割り切れないものが数えきれないくらいありますよね。

 

実はそんなこと誰でもわかっていると思うのです(稀にわかっていない人もいるかもしれませんが)。

 

ですが、割り切れないことに関して何らかの意思決定をしないといけないときにそれを便宜的に数値化すると、須らく科学的・合理的・客観的であるというお墨付きつまり対外的エクスキューズが出来るようになるという使い勝手の良い側面がありますので、特にある一定期限内で物事を処理しまた対外的評価を受ける必要性が多発するビジネスの世界では非常に重宝されるというわけです。

 

ここで私の専門である不動産鑑定を例に出しましょう。

不動産の鑑定評価は歴史もありそれなりの手法も長年専門家が議論を重ねながら積み上げてきたものですので、正当な鑑定により出た数値は当然根拠のあるもので社会的には合理的で信用の出来るものであることは言えます。

評価額でもって経済活動の一環として対外的な資産評価とし利用することは有効であります。

つまり数値化教の世界では有効であるというわけです。

 

ところが、一度数値化教の抽象的世界を飛び出して実像の世界に入ったらどうでしょうか。

その実像の世界では、例えばある会社が本社ビルを良い場所に市場価格で適正に購入した、その直後の疫病蔓延によるテレワークの永続化によりせっかく購入したビルが宝の持ち腐れになってしまう、などということが起きるかもしれません。

または世間からは高級住宅街と言われる地域で夢の一軒家を大枚払って購入したは良いが、その後謎の怪奇現象に悩まされ、恐怖にかられた結果二束三文で売り払ってほうほうの体でその家から退散する羽目になるかもしれません。

これまでこのようなことを言っても、迷信や極端な例などとしてまじめに検討されることはありませんでした。

ところが実際にはこのような例が意外とあるのです。

上の例では疫病をコロナに変えれば今現在起こっているところです。

 

当然このような例は数値化にはなじみません。

しかし実際には起こりえるのです。

しかも私の経験上意外とドラマチックな形で。

不動産特に「地」は、時として意思を持っているかのように振る舞っていると感じることが、その頻度は決して高くはありませんが確かにあるのです。

 

数値化は今の市場経済では非常に使い勝手のいいものです。

しかしこれまで書いてきた通り、この数値はあくまで物事を抽象化し素人にも見やすくする方便であり、いわば虚像の世界です。

ところが現在ではこの数値が肥大化し権威を持ち、まるで数値が実像であるかのように振る舞っています。

人々もその権威の数値を安心のために追い求め、良い数値を見て安住しています。

しかし数値はどこまで行っても虚像なのです。

イリュージョンなのです。

 

更にここにきて改ざんや数値にお墨付きを与える専門家の忖度や腐敗がようやく表面化し、その権威たる数値そのものが信用できないものつまり偽物の神であることが判明しつつあります。

私は、今回のコロナとワクチンの一件がこの数値の信用というものに今後決定的な評価を与えるものになるではないかと注目しています。

ですから私はこのブログでも最近ワクチンの話題をよく書いているのです。

 

ネット社会化による情報開示も重なり、腐敗を背景とした数値教つまり従来の私達が慣れ親しんだ虚像の世界が終わりを告げていくのです。

 

ではこれからは実像一本で行くか?

いやいやそれはあまりに呪術的で、今のテクニカルで複雑な近代社会にそれだけで対応することは到底出来ません。

それであれば答えは簡単です、実像と数値という虚像をバランスよく使っていくのです。

 

そのためにはまず一人一人が数値を見て安心してしまうのをやめましょう。

数値と実像は違うのですから。

数値はあくまで大切な指標です、目安です。

しかし、そこまでです。

それでは、そこから先、つまり実像にはどうやってアプローチするかです。

それには自らの奥なる本当の心、感性に頼るしかありません。

しかし、それにプラスして方法があります。

それはこちらから相手に働きかけてみる、話しかけてみる、ということです。

例え相手がものであったとしても、です。

 

今や虚像に頼る現状社会の限界が見えてきた以上、各自実像に向き合いそこから得られる情報をも活用する次世代に進んでいくしか選択肢はないのです。

上で不動産に関するオカルト的なトラブルを書きましたが、私達自らが対象となる不動産や地と真摯に向き合い対話する姿勢を持っていれば、不動産や地は私達の直感的気づきに働きかけるカタチで何らかの情報を事前に与えてくれたかもしれないのです。

もし何からの気になる気づきや出来事が起こったとすれば、そうした現象から得られる主観的な直感による情報も次世代では数値化と併用して活用していくということです。

私は、これは人の進化と呼べると考えています。

 

最後に、このようによろず実像に向き合うに際して、私の土地親和論も一つのヒントになろうかと思います。

もしよろしければ、下に備考として土地親和論を掲載しておきますのでご参考にしてください。

 

 

 

(備考)

 

「土地親和論」を以下のように提示します。

 

「地と人は繋がっており一体です」

したがって、

「これからは、人はそれを自覚し、地に足を付け、地に感謝し、地を清め浄化し、また地から必要なものを豊かに恵んでもらい、地やその元である地球のありとあらゆる生命やモノ・コトと助け合いながら、また人々も助け合いながら生きていくという哲学を基盤として、新しい社会やコミュニティを皆で知恵や工夫や情報を出し合い創っていきましょう」

土地親和論 ‐ 割り切れないものを割り切ってはいけない進化論(その1)

物事には割り切れないものが数多くあります。

 

しかしとかく物質的な価値観を神格化し物事の見える化にこだわるこの(特に最近の)資本主義の世の中では、割り切ることが難しいものを数値化して多くの人々に見える化する方が、結果そのものの評価がしやすくなるし使い勝手も良くなるという側面があります。

例えば人間が賢いかどうかの判断は、本来どの視点から見るかによっても変わるでしょうし環境や時代背景によっても変わると考えるのが当然なのですが、現代ではIQとか偏差値等の数値を拠り所として判断するというのが一般的です。

高学歴だからその人は頭が良いなどということを人々も当事者も当然のこととして受け入れてしまうというのはその典型的な例です(今回のワクチン騒動を見てもお判りのように、実際は高学歴の人でも確かに勉強は出来るかもしれませんが反面精神的には未成熟で幼稚で賢くない人間が数多くいるようですが)。

資産価値がある不動産などもその典型的な例となるでしょう。

私がその資格を持っている不動産鑑定士などはその数値化の真っただ中にいると言えます。

 

更に現在では物事を評価するために数値しか見ないという人さえいます。

特にビジネスの世界では意思決定や事後評価に当たって常に具体的な数値が求められるというのが一般的になっています。

成果主義哲学の浸透した現代ビジネスの世界では数値こそ正義というところまでその支配力を高めているのです。

いやこの傾向はビジネスの社会だけでなく一般社会でも同様です。

日常よく見る広告や商品説明を見てもわかる通り、物質的価値観偏重の現代社会ではいたるところに数値化が浸食しており、また多くの人々も数値をその評価の拠り所としているというが現状です(かく言う私もその一人ではあるのですが)。

 

では数値化そのものの効能はどうかというと、それは確かに大きなものがあることは間違いありません。

例えば研究の過程とか行政でマスの趨勢を見る時とか、数値化することが非常に有効であるものは数多くあることは皆様方も良くお判りかと思います。

しかし現在ではその弊害も出てきているようです。

現在では数値正義が行き過ぎて何事も優良な数値が求められるようになり、本来物事を評価するための一つの道具であったはずの数値が、今やその意味を超越し数値そのものつまり良い数値を得ることが目的という地点まで進んでしまっているようなのです。

そしてその結果数値しか信じない、良い数値があれば疑いもなく信じてしまう、という人も多く出現している事態となっています。

数値が全知全能のお墨付きになっているのです。

更に数値の中には専門的なものも多いですから、そのお墨付き役として専門家という方々が出てきます。

私もその端くれである不動産鑑定士も鑑定評価というカタチで不動産の数値化にお墨付きを与えているとも言えるでしょう。

まさに数値こそが万人に平等に民主的にそのものの評価を見えるようにした公平な指標、正義ということになったのです。

あらゆる人の拠り所、信仰の対象になったとも言えるでしょう。

 

ところがその当然の結果として数字の改ざんやごまかしが横行してきます。

こういったものに対して法律や規則で縛っていこうとしてきていましたが、昨今のネット社会の進展によりアンダーグラウンドの情報が一般社会に露呈し始めた状況の中で、今までならば隠し通せたかもしれない行政や企業による数値の改ざんが相次いで表面化しており、またワクチンでお気づきの方もいらっしゃるかと思いますが専門家と企業の癒着による恣意的数値のお墨付きというものも徐々にその姿を現しているというのが現状です。

昔のお隣中国の宮廷を舞台にした歴史小説風に言えば、数値という皇帝を帝(みかど)自らの命(めい)として御簾(みす)の奥に隠して重臣たちに直答(じきとう)を許さず、本来帝の身の回りのお世話役に過ぎなかった取次役の専門家Aという宦官が権力を思うがままに壟断(ろうだん)してきたが、どうやらその行く末に綻び(ほころび)が見えてきた、といった具合でしょうか。

 

このようなこれまで比較的社会的信用があると考えられてきた機関による数値の不正が表面化してくるということは、それだけ社会の腐敗が進行し権威の信用が揺らぎ現在の社会体制の行く末に限界が見えてきたということの反映であると私は解釈しております。

 

今回のコロナとワクチンの一件は、上に書いたような側面を図らずも見事に浮き彫りにしたと私は見ているのですが、皆様は如何お感じでしょうか。

 

ところで、これまで書いてきたこと何か変ですよね。

数値という虚像ばかり出てきて、実像が出てきません。

 

続く